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好音調フレヰグランス。

好きな音調だけを奏でながら、音楽一筋で生きていきます。そんな学生の他愛も無い日々を綴ったウェブログです。
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2024/05/18
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2009/10/23
16:46
ちょっと書かせてください。

 


ふと携帯で更新。




某mixiのニュースの偏りにも腹がたちますが、

問題なのはそのコメントの数々…。












公立高校の実質無償化に合わせ、私立高校も無償化を検討…との記事に賛同する輩なんていうのは非常に少なく、『甘え』やら『共産主義』やらの意見が非常に多いのです。『金がないやつは働けばいい』とか『公立行けるように勉強すればいいだけ』…なんて意見もよくある典型例。




僕なんかそもそも教育に関しては政府が無償で提供できるようにすべきだと思いますね。ただ「受ける」だけではなく「選ぶ」自由も保証する…皆等しく教育を受けられる権利があり、大人には受けさせる義務が生じるわけだから、金銭的にその自由が制限されてしまうのは決して良いこととは言えないと思います。



私学の価値が下がる…みたいな意見を持つ人がいるかもしれないですが、それは学校ごとの教育の質で勝負すれば良いだけだし、入学試験を設けているわけだから、無償化で生徒の質が落ちる…といった問題が起きるわけでもない。





そもそも、無償化することが何故『甘え』になるのかが非常に理解しがたい。




例えば…

現状、金銭的な理由で公立しかいけないような家庭が、わざわざ金銭的に進学不可能な私立の進学を希望するでしょうか…?

有り得ない。
それはただの自滅行為にほかならないですよね。




金銭的な余裕があるならそのまま私立に行かせるし、金をかけて子供を塾に行かせたりするわけですが、

余裕がないならそれなりに家庭内で話し合い、議論して、子供をどこに行かせるのかを決めるのが当たり前です。というか、普通は金銭的に可能な範囲の学校に行かせざるを得なくなる。滑り止めの私立でも、現状金銭的に「進学可能」な私立を選ぶのが普通の考えなわけで、この時点で、ごく一般的な家庭の一連の動向は、決して『甘え』ではないのです。




政府に『甘え』るのであれば、上のような行程それ自体が最初から存在しないでしょう。



例えば、ただ「この学校にうちの子供を入れさせたいから金をくれ!」と政府にいわば脅しをかける親の強大な圧力によってシステムが捩曲げられた………。考えられる場合はこれぐらいでしょうか。

日本中がモンスターペアレントだらけなわけがありません…。





ちょっと脱線しますが、低所得者に関するセーフティーネットをすぐに『甘え』と表現して淘汰する風潮が一部の人間の間であるようだけども、

よく考えてほしい。わざわざ公的な金銭保護を自ら受けようとする人なんているわけがない。法律上などの特殊な諸事情はあるにせよ、生活保護や何にしろ社会的制限をかけられて少ないお金で生活するよりは、ちゃんと経済的自立をするほうが到底良い訳だし、皆後者を選ぶのが普通です。「甘え」でわざわざ保護を受ける…なんてこれこそまさに自滅行為にほかならないし、そんな特異な人間は殆どいない…と推測できる。





話を戻して、

最近は何ともアメリカ保守的な意見が日本にも浸透してきたみたいですが(元からかも知れないが)…というのも、セーフティーネットをすぐ『共産主義』と罵倒する人がいる…ということ。



そもそも、教育に資本主義や共産主義の概念を持ち込むこと自体筋違いな意見だと思うわけで…、経済ないし社会の基本システムの中に「教育」が組み込まれる…のではなく、教育の「結果」が長期的に経済や社会にフィードバックされる…の方が正しい表現だと、私は思います。故に教育システムを資本・共産主義の枠内に組み込んで設定する必要性はないのではないか。




では経済抜きに考えて「全体主義」的…と言えばどうだ?…と思うかもしれませんが、そもそも全体主義自体が『平等性をもたらす』ものとは言い切れません。



資本主義は競争社会が基本原理なのはご存知な通りで、よって格差が生まれることは当然なことではあるし、それ自体を否定することはできません。



ただ共産主義ないし全体主義は、個人を「全体」に包み込もうとする姿勢ではなく、「全体」から外れたら強制的に押し込み、同化しないなら排除・無視する…という非常に排他的なものだったはず…これは歴史も証明していることでしょう。つまり共産主義にも格差は生じる、と考えることも可能であります。


よって、セーフティーネットの概念自体が、資本・共産(全体)主義の考えとは一線を画している、とは考えられないでしょうか。




それに少し視点をずらして考えてみると、人間には自然と優劣が生まれてしまうもの…とは考えられないだろうか。

勉強ができる人もいれば、出来ない人もいる。皆努力すれば頭がよくなるのであれば、世界中天才だらけになってしまう(努力しない人を除いて)。



ならば、努力したのにも拘わらず、その枠に入れなかった人に対してもそれ相応の処置や保証をすべきではないのでしょうか?



『公立行けるように勉強すればいいだけ』というのは、成績がその目標に絶対的に到達出来ることを暗にも前提にしてしまった議論であり、ではいくらやっても達成出来なかった場合どうすればいいのか…。

公立にいけなかった人、勝者の枠から外れた人…いわゆる『負け組』を最低限保護することが、政府の本来の使命ではないのか…と私は考えます。




そのことと全体主義とが一体どう関連するのか…答えは断然No。






これに付随したよくある意見で、『社会全体がその底辺に合わせる必要があるのか!』という反対があったりもするが、これもまた筋違いとは言えないだろうか。


別に教育の無償化は、底辺に合わせようとしている訳ではなく、「機会の平等を与えている」だけ。


本当に底辺に合わせるということになると、そもそも底辺はどこか…という話にもなるし、下を見たらキリがない。金銭的な制限を捨て、本人の努力次第で好きな高校にいけるようなシステムを揃えることは、底辺への画一化…といった全体主義的行為ではなく、あくまで皆が同じスタートラインに立てるようにするための配慮、とも考えられよう。



『努力しない奴が楽をするじゃないか!』という反論にも一言言及しておきたい。

では、努力しなかった人の社会的地位をわざわざ落とす必要性があるのか、と。


努力しないと落ちる…でなく、「努力すれば上がれる」機会を整備することのほうが重要であり、よりベターな選択であると私は考えています。それで努力する人が増え、より良い人材が増えたほうが将来の国益にも繋がっていくわけだし。






最後に、『高校にいく金がないのならば、中卒で就職して働けばいい…』…という意見にも一言添えたいと思います。




では、何故、皆高校に行くのでしょうか?

もちろん勉学のため、集団生活を通して教養をつけ将来的に豊かな人生を送るため…ではあると思うが、やはり殆どの人は、その後大学に進学して「就職を有利にするため」、という要因が非常に高い割合を占めているのは否定できない。




現状、中卒で十分な就職先が見つかるとは到底考えられない社会において、殆どの親が子供に多少金銭的な無理をしてまでも高校・大学へ行かせようとすることは当然の行い。




ならば「金がないやつは高校に行かない」という現状の慣習にわざわざ反抗させようとするのではなく、逆に慣習を妨げるバリアを取り除くことのほうが将来性があり、よりベターではないだろうか?






というわけで、以上が凄く言いたかったことです。



僕は全て「自己責任」の議論で済ませてしまうやり方には多いに賛同できません。

何故ならそこで議論は止まってしまうから。否、自己責任として取り巻くファクターを全て切り捨て、それは議論とすら成立しないかもしれない。


ただ、お金を気にしないで皆が勉強できる環境のほうが良いじゃん。それだけです。



どうせなら大学まで無償化して欲しいものです。民○党には頑張っていただきたい。










追伸



久々に社会性な話題を語ってしまった。w

さて、これは一人の単なる学生の戯言なんで、真に受けないでくださいね。




さて、バイトだバイト

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